松本清張の小説が映し出す時代の影
昭和のドラマって、松本清張系原作の映画/ドラマに代表されるように、テーマが暗いものが多いです。
「砂の器」や「ゼロの焦点」などは、悲惨で哀しい過去を隠したい、売れっ子前衛音楽家と社長夫人が犯した殺人でした。
そこには、戦後の混乱期から復興、高度成長期の影に隠れた多くの人々の声がありました。
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時代を震撼させた「永山事件」
当時、「永山則夫連続射殺事件」が、社会を大きく騒がし、犯人である永山の悲惨な生い立ち(貧困、虐待)に、ある種の共感や同情心を持つ人々も多かったのです。
永山は死刑囚として、獄中で読み書きを憶え、小説を書くようになり、小説「木橋(きはし)」は、第19回新日本文学賞を受賞しました。
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小説家の中上健次は、「我々自身、いつ、どんな形で、永山と同じような殺人を犯さないとも限らない。
というような想像力がないなら、我々は文学者として立つ資格がないではないか!」と述べ、永山の日本文藝家協会への入会拒否への抗議として、筒井康隆らと共に、協会を退会しています。
昭和の1970-80年代には、社会の暗部にいる者たちへの共感は、当時の世相の根底にあった気がします。
永山則夫(当時19歳)は、1968(昭和43)年10月11日、東京でホテルのカードマンを射殺、10月14日、京都で民間の警備員を射殺、10月26日、函館でタクシー運転手を射殺、11月5日、名古屋でタクシー運転手を射殺するという連続射殺事件を起こした。
この事件以降、殺人事件において死刑判決を宣告する際は、永山判決の傍論である死刑適用基準を参考にしている場合が多く、永山基準と呼ばれている。
昭和を代表する刑事ドラマ「特捜最前線」
前の記事でも紹介した「特捜最前線」はバットエンドが基本で、エンディングテーマの「愛の十字架」もあいまって、なんともやり切れない気持ちになりました。
その中で、理不尽な社会の中で「人が生きるとは何か」、「尊厳とは」などの根源的な設問に立ち返らせてくれたのです。
1979 Fausto Cigliano – 私だけの十字架
余談ですけど、このYoutubeのF. チリアーノのツィードジャケット、カッコいいですね!
そして平成のおわりに
昭和の鬱屈は、高度経済成長期の急激に変化する社会情勢の中で、取り残される人々の心象を映し出したものだったと言えるでしょう。
今も昔も人間の心象は変わっていないかも知れませんが、どこか暗い部分を表すことを躊躇するムードが、日本全体にあるような気がします。
「負け組」や「自己責任論」の言葉に代表されるように、人間の不可解さや弱さ(みんな持っているにもかかわらず)が、見たくないもの、見えないものとして処理されていく。
それは、より深い淀みを社会の底に沈殿させているような気がします。